(旧HP巻頭エッセイ25) 2020年3月 錦帯橋の話 原田 俊一
私の住んでいる岩國市が世界に誇る文化財に名勝錦帯橋があります。
今野寿美先生は「水ぎはに立ちてあふげばみつしりと耐ふるかたちの錦帯橋あり」と詠んでおられます。川幅約200Mの錦川を、中 央3橋は完全な橋脚のない反橋(約35M)、そして両端は橋杭が支える反橋からなる五連の端麗な木組み橋を、水際に立って詠まれた名歌です。
私は平成20年、この錦帯橋を世界文化遺産にしたいと思いたちました。その後、紆余曲折があり、平成30年12月に山口県と岩国市推奨は、わが国の世界文化遺産登録の窓口である文部省に対し、 錦帯橋の世界遺産登録の準備書面を提出しました。 世界文化遺産は「顕著な普遍的価値を有する」ことが前提にあると 共に文化的背景が必要であります。例えば、「富士山」は当初自然遺産として登録を申請しましたが、「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」という文化遺産として変更され、平成5年に登録されました。
錦帯橋も独創的架橋技術による世界に類例のない反橋(構築物) であるのみならず、錦帯橋の有する目に見えない価値(IntangibleValue) が必要とされます。
錦帯橋の上部構造は、丹塗りでなく無垢の木材ですので風化します。 従がって、約20年ごとに新しく架け替えてきました。それは自然と一体化する融和性、遷宮祭等の再生の日本固有の文化に裏付けされた 構築物であると考えられます。そして1673年創建されて以来、変遷はありますが領民の自主的拠出米で維持管理されてきました。
話題は変わりますが、東京大学文学部卒業後芥川龍之介は一時 海軍に奉職し、1917年研修航海中に岩國市由宇沖に停泊した金剛丸 より上陸して錦帯橋を訪ねました。 そして、錦帯橋に立つた青年士官は、錦川上流約20kmにある実父 新原敏三の麗しい故郷(岩國市美和町)を偲び、自分のルーツを直感的に自覚し、帰京後間もなく依頼された揮毫に「本是山中人」と記した と言われています。「もとこれさんちゅうのひと」は『禅林句集』を原典としますが、生涯の座右の銘が生まれたきっかけに錦帯橋があると言えましょう。
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