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(旧HP万葉カフェ33)2022年7月

 大判官は歌会の演出家   阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使一行は、博多湾の唐泊(からどまり)から、引津(ひきつ)の亭(とまり)へと進みました。玄界灘に突き出た糸島半島の東岸から西側へと、陸沿いに30キロほど航路を進んだことになります。ここ引津の宿駅でも、幾日かの風待ちをしたようで、この地で詠まれた七首が記録されています。  周防から豊前へと、命からがら漂流した一夜から一月半ほど経っており、振り返ればいやまし募る望郷の思いが歌われています。口火を切ったのは、前回読んだ大判官でした。 沖つ波高く立つ日に遭(あ)へりきと都の人は聞きてけむかも   巻十五・3675  〈沖の波が高く立つ怖ろしい日に遭遇したのだったと、都で待つ人々は聞いてくれただろうか〉 「遭へりき」は予期せず出くわす意の「遭ふ」に助動詞、完了存続の「り」と過去の「き」が付いて、恐怖の体験を追体験しているようです。「聞きてけむかも」の「てけむ」は完了の助動詞「つ」に過去推量の「けむ」が付いています。  一行の海難事故は、その後停泊した「筑紫の館」から、駅馬で都へ伝えられたでしょうから、その知らせを「都の人」たちが聞いてくれただろうか、と思いを馳せるのです。もちろん、一番に伝えたいのはわが妻ですが、あえて「都の人」と広げて言ったところに、作者の思慮がうかがえます。自分個人の情感を押さえ、都への望郷の思いを添えたことで、そこにいる者たちの歌心に訴えたのでしょう。大判官の後に続く無記名歌の五首、それぞれの情趣をこらした旅愁と望郷の歌が並びます。  大判官が遺した五首をつぶさに読むと、いずれも抒情の質に広がりと落ち着きが感じられ、その場の空気を敏感に読み取り、皆の抱える情緒を一首する手腕に長けていたようです。折々に開かれた歌会で、彼はペースメーカーとして他の歌人たちの歌心に刺激を与え、その場を盛り上げていたように思えるのです。 (寺尾登志子)

(旧HP万葉カフェ32)2022年6月

  眠れぬ妹を闇に思う大判官の一首 筑紫館を後にした一行は博多湾を十八キロほど進み、現在の唐泊(からどまり)に着きました。当時、そこには船が停泊して人々が宿泊する施設があって、使節団も三泊しています。折から秋の美しい月夜が続いたようで、海原を皎々と照らす月光に旅の憂いは極まり、せめても歌で慰めよう、という運びになりました。 大使と大判官がそれぞれ一首、それに無記名の四首が載せられています。そのうち、大判官の歌を読んでみたいと思います。大判官とは大使、副使に次ぐ位で、名は壬生使主宇太麻呂(みぶのおみうたまろ)とされています。 旅にあれど夜は火灯し居る我を闇にや妹が恋ひつつあらむ  巻十五・3669 〈苦しい旅先であっても、大君に命じられた任務であればこそ、夜も明るい灯火の元でこうして過ごしているけれど、そんな私を闇の中で眠れぬ妻は悶々と恋しく思っていることだろう〉 灯油は貴重品ですから、下級役人の家では日暮れとともに闇が訪れます。一晩中灯明をつけるなど、ありえませんでした。自分の置かれた非日常的な夜の明るさに気づいた時、作者は闇に鎖されたわが家の妻を思い浮かべます。恋しい男を想って眠れぬ妹の白い肌が闇の中に見えるかのようで、ほのかな官能さえ感じられる一首です。 作者は疫禍に蝕まれた苛酷な旅にあって運良く罹病せずに帰朝、その後は国守などを経て従五位下まで昇進しています。悲運の遣新羅使人たちの中で、無事帰還できただけでも僥倖といえましょう。この歌を含めた五首が新羅への旅中に詠まれ、万葉集に載せられました。 (寺尾登志子)  

(旧HP万葉カフェ31)2022年5月

  阿倍継麻呂の七夕歌 前回は、天平八年に派遣された遣新羅使のうち、往路で疫病に没した雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が、生前ただ一首遺した歌を読みました。周防市沖合いで漂流し、激しい波風に翻弄され、船底一枚下は地獄の恐怖と一晩中闘いながら、ようやく漂着した中津の海辺で詠まれた歌は「大君の命(みこと)恐み(かしこみ)大舟の行きのまにまに宿りするかも」で、天平官人の使命感と、宿命への諦念を感じさせるものでした。 一行は中津に一週間ほど滞在した後、周防灘から関門海峡を通って響灘、玄界灘へと舵を取り、大宰府に近い筑紫館に到着し、一か月ほど滞在したようです。そこは、大陸、半島からの使節団を接待するための施設で、現在の福岡城二の丸東隣がその跡地と推定されています。    この筑紫館滞在中に作られた歌が十六首遺され、七夕の晩に天漢(あまのがわ)を仰いで作ったものが三首あります。その一首を紹介しましょう。 秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御舟の綱し取りてば  巻十五・3656  〈秋萩の花のように美しい私の裳が花の露でしとどに濡れるように、たとえぐっしょり濡れてしまおうとも、あなたのお舟の綱を、この手に取って岸にむすぶことができたらどんなに嬉しいことでしょう。〉 この歌の作者は、七夕の「織女」に成り切って、彦星を待つ思いを歌っています。「裳」は女性が下半身にまとう衣服で、後世の袴、今のロングスカートというところ。濡れた女性の裳が肌にひったり貼りつくところに、万葉人は官能美を見出だしていましたから、この織女も美しいエロスをまとっています。 また、秋萩は、山野を逍遥することの多かった万葉歌人がもっとも愛した野草で、上二句は織女の「裳」の美しさの比類ないことを伝えています。同時に季節が夏から秋へと進んだことも示しています。 この歌は左注に「右の一首は大使」とあることから、作者は使節団を統率する阿倍朝臣継麻呂だと分かります。難波の港を出港したのは六月初め、海原に浮き寝する旅も、はやひとつき余りとなりました。    大使の阿倍継麻呂は七夕にかこつけて、みずから織女を演じることで、使節団一行の望郷の念を汲み取り、彼らを待つ妻女をしのばせるよすがとしたのでしょう。継麻呂の純粋な七夕歌の後に続く二首は、無名の使人による七夕歌で、望郷の念をたっぷりと伝えています。...

(旧HP万葉カフェ30)2022年4月

 雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の悲歌 天平八年(736)六月、時の朝廷は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)に使節団を派遣しました。史書によれば、その前年、筑紫の大宰府管内で疫病が発生し、多くの人命が奪われ、やがて東へ畿内へと広がって、聖武天皇は大赦を命じたり税の免除をしています。 そんな緊急事態になぜ半島へ使人たちを送ったかと言えば、新羅との関係が悪化し、一触即発という情況をどうにか打開しようという喫緊の目的があったからです。当時、疫病は半島から筑紫へ伝染したと考えられていましたから、外交上の難題を抱え、疫病の坩堝と思える土地に赴く使人たちの胸中は、いかばかり不安に満ちていたことか。 八十人ほどの使節団を乗せて難波津を出帆した船は、瀬戸内海を一路、筑紫、壱岐、対馬そして新羅の釜山へと向かいます。巻十五は、その旅程で使人たちが故郷の妻を偲んで詠んだ歌や、停泊地の宴で詠じられた歌、旅の無聊を慰めるために吟じた古歌などが、「歌物語」風に編集されて歌群を形成しています。 遣新羅使の往復は六、七ヶ月要したといいますから、その間、恵まれた海路の日和ばかりでなく、荒天ともなれば船底一枚が生死の境目となったことでしょう。その年の使人たちは、難波を出港して半月ほど経た行程で逆風に遭い、大波にもまれて一夜を漂流しています。山口県周防市沖の佐波島(さばしま)を通過した辺りで流され、翌日大分県の海辺、中津に漂着しました。そこで、命からがらの一夜、前夜体験した艱難を思い出しながら人々の詠んだ八首があり、雪連宅満の次の一首はその冒頭歌です。 大君の命(みこと)恐み(かしこみ)大舟の行きのまにまに宿りするかも 巻十五・3644  「大君の命」は帝のことば、勅命を意味します。「かしこみ」の「み」は「~なので」、「まにまに」は「~に従って」と訳します。 〈大君の仰せは恐れおおいので、大君の御心そのものとして、大舟の行くに任せて旅の仮寝をするわれらであることよ〉 「大君のみことかしこみ」は、奈良時代の官人意識を如実に表す慣用句ですが、命からがら一夜を漂った身にとっては、拒否できない宮仕えに対する諦めも滲んでいるように思えます。「大君のみこと」ゆえ闘はねばならぬ恐怖や苦難、われらそれに耐えてこそ奈良の都の官僚たるべし、という使命感におのれを奮い立たせながらも、「行きのまに...

(旧HP万葉カフェ29)2022年3月

 紀女郎(きののいらつめ)その六    前回は、年下の男からの誘いをやんわり断る紀女郎と、君がお婆さんになっても愛するよ、という昭和歌謡にありそうな家持の返歌を読みました。家持の歌に詠まれた老女の迫真ぶりは、もう笑うしかないほどで、そこには文芸を介した粋で濃密な男女関係が見られました。 そんな二人の贈答歌をもう一つ紹介しましょう。女あるじと彼女に仕える若造(戯奴=わけ)の立場に成り切って贈答しています。ある時女郎は、茅花(つばな)と合歓(ねぶ)の花を折り取って家持に贈り、歌二首を添えました。 ・戯奴(わけ)がため我(あ)が手もすまに春の野に抜ける茅花そ召して肥えませ 巻八・1460  ・昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓の花君のみ見めや戯奴さへに見よ 同・1461 一首目の「すまに」は「休めないで」、「そ」は強めです。「茅花」はチガヤの花のことで甘味のある若い穂を茎から抜いて食用にしたそうです。二首目の「君」は目上に呼びかけているのではなく、自分のことを言っています。「さへに」は「さへ」の古い形です。 〈おまえのために春の野で休まずせっせと引き抜いた茅花ですよ。どうぞ召し上がってお肥り遊ばせ〉 〈昼は花開き、夜には恋いつつ眠る合歓の花です。あるじばかりが見てよいものか。おまえもとくと御覧あれ〉 家持は痩身だったようで、それをからかってみたり、合歓の花に恋の情緒をまとわせて、若い家持を挑発したりしています。「合歓」の字は漢籍で男女の交わりを示し、その花を見よ、というのは相手へのきわどい謎かけとなっています。さて、家持の切り返しはいかに。 ・我(あ)が君に戯奴(わけ)は恋ふらし賜(たば)りたる茅花を食(は)めどいや痩せに痩す同・1462 ・我妹子(わぎもこ)が形見の合歓木(ねぶ)は花のみに咲きてけだしく実にならじかも同・1463 二首目の「形見」、万葉集では故人だけでなく生きている人の記念の品を言います。「けだしく」は「ひょっとすると」と訳します。 〈わが君に、若造の私は恋をしているらしい。頂いた茅花を食べたけれど痩せに痩せるばかりです〉 〈可愛いあなたの身代わりの合歓は、花が咲いてもひょっとしたら実は成らないのでしょうか〉 一首目の結句の強調表現は、恋に苦しみ身は細ると言うのでしょう。二首目では相手を「吾妹子」と親しみをこめて呼び、芝居の主従関...

(旧HP万葉カフェ28)2022年2月

  紀女郎(きののいらつめ)その五  コロナ禍の春も三回目を迎えています。会いたい人と会えない日々、電話やメールで交わす会話に慰められることも少なくありません。天平12年(740)、奈良の都を捨て新都造営を意図した聖武天皇に従い、突貫工事の始まった恭仁(くに)京に暮らす大伴家持も、同様の気分でした。  婚約者の坂上大嬢を奈良に残し、単身赴任の無聊を歌でもっぱら癒すのでしたが、心を許した年上の女性歌人、紀女郎とのやりとりはこの上なく楽しかったようです。「逢いたい」「年の差大きいからだめよ」「それでもいい、お婆さんになったって君を愛してる」というノリの贈答歌を読んでみましょう。  家持の誘いの歌は省略され、年下の男からの誘いを拒否する女郎の歌から始まります。  神(かむ)さぶと いなにはあらず はたやはた かくして後に さぶしけむかも(巻四・762)  玉の緒を 泡緒によりて 結べらば ありて後にも 逢はずあらめやも(同・763)  一首目、「神さぶ」は神々しく振る舞うことですが、「女」を卒業し「老女」となったことを言うのでしょう。「いな」は「否」。「はたやはた」は「ひょっとしたら」という迷いを表します。 (お婆さんだからノーではないのです。でも、ひょっとして、こうしてお断りした後に、寂しくなるかもしれないわ)  女神降臨を思わせながらの拒絶に、そっと女心を添えたところが憎い味わいです。二首目の「玉の緒」は命のこと、「泡緒」はゆるく撚った紐をいいます。 (二人の命の紐をゆるく撚って結んだら、永らえて老女となった後、逢わずにいるでしょうか、きっと逢えますわ)  恋の実体はなくても老いてなお求め合うのを良しとする、心の余裕と伸びやかさが伝わります。二人の関係、適確なスタンスを弁えた大人の女の反応とも言えます。そして、次が家持の返した歌。  百年(ももとせ)に 老舌(おいした)出(い)でて よよむとも 我れはいとはじ 恋ひは増すとも(同・764)  三句の「よよむ」は曲がること、主に腰が曲がったことを言います。(百歳になって緩んだ口元からろれつの回らぬ舌先を覗かせ、曲がったお婆さんになっても、私は嫌ったりしませ んよ。恋心はいっそう増すとしても)  上の句は、老耄の姿を他にない適確さで描写しており、その直裁さゆえに笑ってしまいます。山上憶良は老いの苦悩をシビアに歌いま...

(旧HP万葉カフェ27)2021年12月

   紀女郎(きののいらつめ)その四 小鹿とも呼ばれた紀女郎は家持との相聞歌で知られますが、当時の力量ある女性歌人でした。今回はその技量と優れた感性を示す「梅花」の歌を二首紹介しましょう。 十二月(しはす)には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含(ふふ)めらずして   巻八・1648     〈12月には沫雪が降ることを知らないからか、梅の花がもう咲いているよ。莟(つぼみ)のままでいないで。〉 三句は「知らねばかも」の意味で「~だからか」という条件付きの疑問を表します。結句は「ふふみあらずして」の短縮形です。近代短歌でもよく使われた「含(ふふ)む」という語は、現代語の「含(ふく)む」と同じですが、万葉集では花や葉が開かずに、つぼんでいる状態を言います。花の莟を内に秘めた恋心の比喩として歌ったものもあり(巻十九・4283)、ここでも恋の情緒がほのかにまつわります。 「沫雪など降ってもかまわない。私は溢れ出る思いのままに咲いて見せるわ」寒さの中で凜と咲く梅の花からは、そんな声が聞こえてきそうです。 梅は早春の花のイメージですが、万葉集では冬の景物としても多く歌われました。梅はまず白梅だけが中国から伝わり、紅梅の到来は百年ほど遅れます。万葉歌人が鑑賞したのはすべて白梅。それゆえ、雪の白さと合わせて歌われることが多かったのでしょう。 寒さにかじかんでいないで、雪の白さに負けじと開花する梅の花。「小鹿」という通称にふさわしい、前向きな闊達さも感じさせます。  そしてもう一首。 ひさかたの月夜(つくよ)を清み梅の花心開(ひら)けて我(あ)が思(も)へる君    巻八・1661  〈(ひさかたの)月夜があまりに清らかなので、梅の花のように、心開いてお慕いする君よ。〉  二句の「…を~み」は「…が~ので」と訳します。「~」は形容詞の語幹で、原因を表します。四句「開けて」の「開け」は下二段活用「開く」の連用形、閉じていたものが自然と広がるニュアンスがあります。 上三句は「心開けて」を導く序詞で、月下に咲く梅の花のように恋しい面影に向ける恋心を映像化しています。一首の内容は「わが愛しの君よ」と言うだけなのですが、月と梅の花のイメージが添えられたことで、抒情的な恋の一首になりました。序詞こそ万葉歌人の腕の見せ所だった、と言ってもいいかも知れませ...