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(旧HP巻頭エッセイ62)2024年4月  虫  千家 統子

 虫は見るのも嫌、と言う人が結構いるが、私は田舎で育ったせいか刺したり、かぶれたり、病気のもとになりそうなものでなければ、一応手にとることはできる。     見るのも大好きとまではいかないが、小さい体で動き回っているのを見ると、君も頑張っているね、と思う。     とはいえ、我が家の狭いベランダの鉢植えの山椒の木に蝶の幼虫が這いまわっているのはかなり悩ましい。大きい木なら食べ放題にしてもいいのだが、 60 センチ程度の木ではあっという間に丸裸にされて   枯れてしまうのは目に見えている。毎年季節になるとじっくり観察をして、できるだけ早く数ミリの大きさの時に見つけ、ごめんねと謝りながら6~8匹のうち2匹だけを残すようにしている。黒い体に白い模様の鳥の糞に似せている幼虫が、ある朝、初代の新幹線   のような形の緑の虫になっている。頭をつつくと、橙色の角を出す。敵が嫌がる匂いを出しているらしいが、人間には効果なし。毎年見ているが、どこで蛹になっているのかベランダ付近を探すがわからない。       無事に羽化して揚羽蝶になったと信じている。      このささやかな自然観察コーナーに熱烈なファンができた。五歳の男の孫だ。二年前幼虫を見て以来遊びに来るたび、山椒も葉を落として虫がいるはずもない冬でも雨でもチェックが入る。挙句、餌の葉っぱは出たか、蝶は卵を生みに来たか、虫を見つけたか、電話の話はそればかりになってしまった。(こちらは園での様子など聞きたいのに)    これまでだと、ごくまれに虫がつかない歳があるとホッとしたのだが、いまやババ馬鹿は虫を早く見つけようと使命感に燃えている。田舎で育った私と違い都心で育つ孫に、ケースに入っている虫ではなく、都心で自由に   頑張って生きている昆虫に触れてほしいと思っている。       今年も山椒は芽吹き、木の芽味噌、若竹煮と人間の方はいろいろ楽しんでいるが、虫はまだ食べに来ない。     近所の家の金柑の木に蝶が飛んでいたので、そろ...

(旧HP巻頭エッセイ61)2024年3月 ちいさな花壇  東野 登美子

  長く巻頭エッセイを担当された原田俊一様からバトンを受け取ることになりました。自然の恵みと人々の叡智によって育まれた樹木、その香漂う原田様のエッセイを道標として綴らせていただきます。 今回は、ちいさな花壇の話です。 4 年前から近隣の障害者施設で働いています。常勤ではないので、如何ほどの役に立っているものかは分かりませんが、学ぶこと考えることが多く充実した日々です。 市立の施設ですが、市内の福祉法人へ委託され、法人の職員が障害のある利用者さんの介護・支援をしているというかたちになっています。利用者の皆さんは、ただ介護や支援を受けるだけではなく、定期的にミーティングをおこない、挑戦してみたいこと、希望することを述べ合います。私が所属する班は、身体的支援を必要とはするものの、自分で考え、自分の意見を持ち、手助けがあれば様々なことにアプローチできるかたが多いので、ミーティングのときは賑やかです。 そんな環境のなかで、 5 年ほど前から実施されたのが、施設内の花壇を管理する作業です。どこにどんな花を植えようかと、インターネット上の画像などをみながら話し合って花壇の図面を作成。 苗を購入して皆で植え、水を撒き、 1 年に2~ 3 回植え替えてきました。私が入職した4年ほど前には、ばらばらに植えられているだけの「なんとなく花壇?」であったものが、昨年あたりから、近隣の人たちに愛でられるほどのものになりました。花壇管理をする利用者さんたちの励みとなり、社会に貢献しているという自信に繋がったのはいうまでもありません。  ですが数か月前から、今までのような形で花壇管理をすることが難しくなりました。花壇管理は、利用者の皆さんの「社会貢献がしたい」という意志によるボランティアです。花壇の植え替えのために購入する苗や新しい土、そして石灰などの費用は、利用者の皆さんの私費で賄われていました。その私費(必要経費)は利用者さんたちが、週 2 回× 0.5 時間、施設の庭などを清掃することによって得た賃金の一部だったのです。ところが、突然、その清掃の仕事が打ち切られました。  清掃作業の雇用主は、障害のあるかたたちを雇用対象とした「生産事業団」ですが、そこに仕事を依頼しているのは市です。市がなんらかの理由で、〈障害者枠での清掃〉の依頼を中止したため、利用者さんたち...

(旧HP巻頭エッセイ60)2024年2月

 捜索中

(旧HP巻頭エッセイ59)2024年1月 銭湯 里見 佳保

     寒い寒い冬が来た。私の冬の楽しみのひとつは銭湯に行くこと。「銭湯、行きたいな。」と思い立ったらいつでも行けるように車にお風呂セットを積んである。半年ほど   前から肩が上がらなくなって、いよいよ冷えがよくないお年頃になったことを実感してきているので、この冬はますますお世話になる回数が多くなりそうである。  わが市は、銭湯の数がとても多く、しかもその湯は温泉である。さらに早朝から営業しているところが多くあることが   特徴で、営業時間が長い。早い店は朝5時から開いている。      これは港町ゆえに海から帰ってくる漁師さんたちのために早朝から銭湯を開けてきたのがそもそもであるとか。      銭湯は生活圏にあるものゆえ、旅行でいくような温泉地の   旅館とは違い、豪華さやおしゃれさはない。しかし、入浴前後もなかなかおもしろい場所なのだ。脱衣所の壁には温泉分析表や演歌歌手のポスター、人生訓などが貼られている   が、読むと妙に納得することが書いてあったりする。受付横   には地元の野菜やちょっとした総菜などを並べているし、風呂上がりのコーヒー牛乳やアイスも昭和からいまだに   健在だ。   湯船だって、手足を伸ばしてくつろげる。家の風呂ではこうはいかない。露天風呂や打たせ湯、季節によっては柚子風呂や   菖蒲湯などの特別な湯もうれしいものだ。       そして何より大切なこと。顔なじみ同士おしゃべりを楽しんでいる常連さんもいるが、私にとって銭湯での入浴は他の人がいる空間の中でひとりになれる時間。     湯船にゆっくり浸かって目を閉じる。さまざまな考えや思いが降りてきてまた消えていく。歌のことを考えることもあるけど、   たいてい風呂で考えたことは忘れてしまう。でもきっとそれでいいのだろ」うと思う。一度からっぽになるから、また新しいことを容れることのできる自分になれる。 銭湯の大屋根くぐるよろこびは異界の湯へとくぐるよろこび   ...

(旧HP巻頭エッセイ58)2023年11月 イチョウ 千家 統子

    東京都のシンボルマークは、イチョウをデザインしたものと長いこと思っていたが、私の思い込みだった。あれは東京都の頭文字の「T」をデザインしたものだそうで、それを知った時ちょっとがっかりした。そう誤解してしまうほど、東京の街路樹にはイチョウが多く目につく。樹高もかなり高いし、晩秋の日に照らされた黄葉の輝きは、歩道からでも車窓からでも目を引く美しさで、秋は東京のイチョウの多さを改めて確認する季節でもある。イチョウは油分が少なく水分が多いので、関東大震災や空襲のとき、延   焼を防いだところがあちらこちらにあったらしい。浅草寺でも水を吹いて建物を守ったという大イチョウが残っている。そういうことも東京にイチョウが多い理由なのかもしれない。      街路樹はオスの木が多いのか、ギンナンが落ちていることは少ないようだが、近所のバス停近くには一本だけメスの木がある。ギンナンの匂いが充満していたらちょっと嫌だけれど、   ふっと鼻をくすぐる匂いに足元を見ると、実がいくつか踏まれてつぶれているのは、秋の深まりを感じさせてくれて結構好きだ   (靴につかないように要注意)。そしてあのヒスイのような透明感のある新物のギンナンに、はらりと塩を振って食べたくなってくる。      知り合いが毎年たっぷりと送ってくれるギンナンは、すぐいただくものの他は、殻ごと 3 分茹で、水分を切ったら殻のまま   密封して冷凍する。   生のまま冷凍するより色もみずみずしさも保っているようで、夏ごろまで楽しんでいる。    明治神宮外苑は今再開発による木々の伐採問題で揺れている。    イチョウ並木は伐採はされないが、影響が出るのではと心配されている。今年もそろそろ見ごろになりそうだから、このエッセイを書き終えたら午後にでも散歩がてら行ってみようと思っている。         炎上ははるかな昔首都と呼ぶ起伏に沿へるいちやうの黄葉 ( もみぢ )      秋の空きりきりたかしかがやかに黄をまとひゆく雄の木雌の木は         ...

(旧HP巻頭エッセイ57)2023年8月 心ひかれる白秋の歌 原田 俊一

          照る月の冷 ( ひえ ) さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり     昭和十三年二月、「多摩」に初出。北原白秋の最晩年の歌集   『黒檜』の巻頭歌である。   北原白秋は福岡県柳川市に明治十八年に生まれた。詩集『邪宗門』、歌集『桐の花』、『白南風』等わが国歌壇に新鮮な家風を送った。昭和十二年暮れ、視力が衰え糖尿病・腎臓病も併発し、薄明の世界に生きることになった。   掲出の歌は、自分を冷静に見つめ、失望や混乱といった感情が窺われず、「神々の恩寵が新たに私に下った云ふならば、この眼疾こそは歓びである。・・・私は充分に静安を守り、戒慎   して白秋そのものの本質を光鮮しなければならぬ。」と述べているにも係らず無理をして、「薄明の世界」を五年さまよい昭和十七年、五十七歳で逝去、まさに佳人薄命である。 ※名歌紹介 君かへす朝の舗 ( しき ) 石 ( いし ) さくさくと雪よ林檎 ( りんご ) の香のごとくふれ   春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外 ( と ) の面 ( も ) の草に日の入る夕 ( ゆうべ )   桐の花ことにかはゆき半玉 ( はんぎょく ) の泣かまほしさにあゆむ雨かな   煌々 ( くわうくわう ) と光りて動く山ひとつ押し傾 ( かたぶ ) けて来る力はも   白秋が現代歌壇に放った光芒の如き言葉は、永遠に新鮮であり続ける。

(旧HP巻頭エッセイ56)2023年7月 奏でる短歌(4) 和嶋 勝利

   今回は、ぼくの作品について述べたい。  YMO の高橋幸宏と坂本龍一が他界した。 YMO がぼくにとってどんな存在だったか。それを述べだすと前置きが長くなりすぎるのでここでは割愛するが、「りとむ」 2023 年 5 月号のぼくの作品はその高橋幸宏への挽歌だ。幸宏の挽歌なんて絶対に詠めないと思っていたが、青春時代の回想と結び付けて一連にすることができた。幸宏の挽歌が詠めたことはぼくにとっても良かった。     ところで、その一連の八首目に次の作品がある。     さにつらふ若草色のセーターの写真の父はわれより若し                                            和嶋勝利「りとむ」 2023 年 5 月号      掲出歌は父への挽歌である。   一連の構成を考えた際に父の挽歌を置いていいのかどうか、当初は迷った。発表は別の機会にしようとも考えたが、何故か幸宏の死と掲出歌は強烈に繋がっている気がした。それが何なのかは分からない。ただ、掲出歌の発表の場はこの一連がぴったりで、ここから外してはいけないという感じはしていた。       この時は連作に幅をだす効果のことなどを漠然と考えていた。    しかし、あるとき幸宏の死と父の挽歌が繋がったのだ。    実は、父が亡くなった年に YMO が解散(散開)していたのだ。      そのことを思い出したのである。 YMO のラストアルバムをウォーク   マンで聴きながら父が入院する病院に通っていた記...

(旧HP巻頭エッセイ55)2023年5月 仕送り 里見 佳保

     給料日をすぎると、まずやることがある。それは仕送り。   遠く離れた大学生の息子へあてて応援の思いを届ける月例行事だ。仕送りのお金は毎月同じ額を親口座から息子口座へ。     もうひとつは仕送り箱。とある月のわが家の仕送り箱の中身を   綴ってみたい。   その1 米(「これさえあれば、何とかなる!」)、 その2 マスク(コロナ禍に大学生になったゆえ毎回欠かすことのない定番仕送り。「手洗いもしっかりしなさいね。」) その3 ふるさと特産品(地元にしか売ってないようなお菓子や   調味料。「なつかしの味でほっとしてね。」) その4 自分では買わないけど、もらえたらちょっとうれしいもの   (かりんとうやカステラなどのおやつ。コーヒーのドリップパックや紅茶のパック、缶詰やレトルト。果物も入れよう。「よろこんでくれたら、うれしいよ。」) その5 わが家独自グッズ(博物館、美術館が好きな息子のために時々は地元紙の文化欄の切り抜き記事なども入れる。「帰ってきた時には地元探検もいいものだよ。」) その6 クッション材(品物の間にタオルやふきん、ティッシュなども入れてすきまを埋める。 できるだけ、いろんなものを送りたい。」)   というわけであれこれ自分たちのための買い物以上に考え   て選ぶ。「届いたよ。ありがとう!」という連絡が来るとほっと一安心。「また今月もがんばってね!」となる。     私も学生時代、母から仕送り箱が届いていた。ぎっしりの品物の中には「なぜこれを?」という品がひとつ、ふたつ入っておりいつも謎チョイスだと思っていた。母は母なりに考えて選び、    詰め、私からの「届いたよ。」の報告を喜んでいたのだろう。     それが今、わかりすぎるくらいわかるようになった。    私の段ボールも息子からは謎チョイスと思われているのかもしれないなあ。       仕送り箱。開けてびっくり、わくわく、うれしい。     ちょっぴ...

(旧HP巻頭エッセイ54)2023年4月 鯉幟 千家 統子

   もうすぐ5月5日子供の日。今は男女区別なく子供の健やかな   成長を祈るということになっているが、以前は3月 3 日が女の子、5月5日が男の子のお祭りということになっていた。   それより前を言えば子供は関係なく、それぞれ上巳の節句、端午の節句で、厄災を払う行事の日であったようだ。端午の節句の折に厄災を払う薬草とし用いられる菖蒲が、「勝負」や「尚武」に通じ、武家社会でいつしか男の子の成長を祈ったり祝ったりにつながったらしいが、定かではない。今はお雛様に比べると、鯉幟も甲冑や五月人形も今一つ盛り上がりに欠けるようだ。やはり武力を誇るような飾り物は流行らないのだろか。それはともかく、青空を風をはらんで泳ぐ鯉幟は気持ちがいい。  今の鯉幟は、緋鯉や小さい鯉を引き連れたファミリーで、勇壮さはあまりなく、「屋根より高い鯉幟おおきい真鯉はお父さん小さい緋鯉は子供たちおもしろそうに泳いでる」の歌が似合っているようだ。でも、ふと気が付いた。この歌では緋鯉は子供。てっきりお母さん鯉と思っていたが、やはり男子優先の戦前の歌だからだろうか。 一方、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景 水道橋駿河台」の画面いっぱいに身を躍らせる一匹だけの真鯉の豪快さ。これはもうひとつの「こいのぼり」の歌「甍の波と雲の波重なる波のなかぞらを橘かおる朝風に高く泳ぐや鯉幟」を口ずさみたくなる鯉幟だ。鯉が龍になるという逸話はこの歌の3番、「百瀬の   瀧を登りなば忽ち龍にになりぬべきわが身に似よや男の子ごと空に躍るや鯉のぼ   り」で知った。小学校の運動会の入場門が「登竜門」とあったの   はこれなのだと知ったのは大人になってからだったと思う。   広重の鯉は瀧を登って龍になりそうだが、今頃の鯉幟は瀧上りはしそうもない気がする。瀧登りをするしないはそれこそ鯉の自由だが、瀧登りができる元気気概は持っていてほしいという   親の想いは江戸時代も今も変わらないと思っている。   元気気概を持った男に育った男の子が戦で死ぬなど誰も願わない。前登志夫の次の歌のような鯉幟の風景は、どこの国であってもいつの時代でも、二度とあってはならないはずだ。鯉幟の季節になると、この歌とともにその思いを新たにする。そして、今...

(旧HP巻頭エッセイ53)2023年3月 桜開花の異変と名歌  原田 俊一

 友人から頂いた歳時記カレンダーを毎日見ている。 それには、桜始開(さくらはじめてひらく)は 3 月 26 日とある。   『樹木大図説』(上原啓二著)に詳述されている桜の開花期もおおよそ3月末となっている。 気象庁は今年の靖国神社の標本木の開花は3月 14 日と発表した。桜の開花は、桜の開花ホルモン(主に休眠物質)と日照時間により決まるらしい。日本気象株式会社は、今年の開花は東京3月 14 日、名古屋 3 月 18 日、大阪 3 月 21 日、鹿児島 3 月 25 日と発表している。 このデータをみると、冬の厳しい寒さと春先の急激な温かさが   関与する。大都会の空調機器による熱風排気が影響しているようにも思える。往時の新入生の入学式( 4 月 6 日頃)には桜が   満開で歓迎してくれたが、現今では、葉桜が迎えてくれるようになった。   わが国には、桜は 300 種以上あり、「ソメイヨシノ」が代表種になっている。「ソメイヨシノ」は「エドヒガンザクラ」を母とし、「オオシマザクラ」を父とする交配種で、江戸時代に東京染井村の植木職人によって主に接ぎ木クローンにより全国に流布した。   クローンなので全国全く同じ華やかな花が鑑賞される。   紀友則(平安時代・歌人)は、   久方の光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ   と愛惜と無常観を詠んでいる。昔はヤマザクラが主流であり、   桜は爛漫さでなく風情を観賞した。 山中千恵子は、 さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生まれて 『みずかありなむ』 と   鎮魂歌を詠んでいるが、この桜もヤマザクラらしい。

(旧HP巻頭エッセイ52)2023年2月  欠

 現状、見あたりません。  発見しだい、アップいたします。

(旧HP巻頭エッセイ51)2023年1月 うさぎ年 里見 佳保

   うさぎ年である。前のうさぎ年は 2011 年。東日本大震災が起こった年だ。あっという間だった気もするし長かった気もする。   とにもかくにも 10 年以上が経っての今の時点での記憶や思いを記してみたい。     私は当時も今も東北の港町に住んでいる。 3 月 11 日から数日電気が使えない生活を送った。スーパーからはものが消え、ガソリンスタンドで長時間並んで給油した。同じような、いや、もっと大変な苦労をされた方もたくさんおられたと思う。     海沿いには津波が到達していたのだが、ニュースが見られなかったので自分たちの土地にどんなことが起こっているのかは後になって知った。海なし県の生まれのため、津波がくるということがどんなに恐ろしいことなのかその時までよくわからなかったのが正直なところだ。     夜は星空が異常なほどきれいだった。町中の灯りは消えた状態だった。経験したことのない事態を耐えるのにはただただ空を見上げるしかなかった。3月の空は寒くて、きれいで、とても遠かった。あれよりきれいな星空はまだ見ていない。      数日たって海の近くに行くと風景は一変していた。そこにあるはずのものがなかったし、ないはずのものがあった。建物が流されていたり、船が陸にあがっていたりしていたのだ。今まで続いてきた暮らしは、なすすべもなくあっという間に消えたり、形を変えたりすることだってある。    自分たちの暮らしはかけがえのないものなのだと思う。ついついそのかけがえのなさを忘れがちになってしまうのだけれど、   時々暮らし自体、時間そのものへのいとおしさがこみあげてくる。     その後の歳月で何かを積み上げてきたのかと問われたら、あまり変わっていない自分に気づく。家族のことを気にかけ、仕事に行き、歌を作る。それを繰り返してきた。そう、歌はいつも暮らしの中にあった。このことを今、心から喜びたい。           かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子...

(旧HP巻頭エッセイ50)2022年11月 荒物屋 千家 統子

     この地に住むようになって四十年近くなる。当初は近所に、   八百屋、肉屋、豆腐屋、和洋菓子屋(もともと和菓子屋だけれ   どここのスイートポテトは美味しかった。)荒物屋(東京に大雪予報がでてスコップを買いに走った)、文房具店などの個人店があったが、今は飲食店やオフィスビルになってしまった。    そんな話を三十代の若いママさん達にしたら、本当にここ買い   物に不便ですよねと言いながら、「荒物屋って何を売っている   お店ですか。」と聞かれた。「雑貨屋よ。」と答えたら、「雑貨屋は近くになくてもそう不便じゃないですよね。」、と言う。    彼女の   雑貨屋のイメージは女の子好みのオシャレで可愛い小物を   いろいろ売っているお店らしい。どうも〈荒物屋〉も死語になりつつあるのか   と愕然とした。一応日常に使う、例えば箒や   塵取り、洗面器、釘、金づち、ロープ、薬缶、鍋、菜箸、ホース、   スコップ、植木鉢等々、オシャレとか可愛いとは程遠い実用品   諸々を売っていたと説明   したら、「それ、ホームセンターですね。」と返ってきた。言われてみれば、近所のミニホームセンター的な役割だっただろう。だから2軒あった荒物屋はとても便利だった。     そしてこれらの個人店は、買い物客の目の前で店の主人やおかみさん、一人か二人程度の店員さんが立ち働く様子がよく見えていた。子供を連れての買い物をすれば、水槽に沈むお豆腐をすくってくれるおかみさんや、魚を下ろしてくれる手元、大根の葉を切るか切らないか聞いてくれたり、注文通りの太さ長さのホースを倉庫から出してきてくれる店員さんを、子供はじっと見て、自然にそれぞれの仕事を知っていったのだと思う。スーパーも店の裏では大忙しだろうけれど、客にはパック詰めされたり束ねられたりして、きれいに並んだものしか見えない。作業の様子を子供が日常的に見ることはめったにないだろう。      三十代のママさんたちは、スーパーマーケット、ホームセンター世代なのだ。荒物屋という、アナログ的...

(旧HP巻頭エッセイ49)2022年10月 錦帯橋の魅力の原点 原田 俊一

 錦帯橋の創建者は吉川広嘉公(吉川家第19代・岩国第3代領主1621~1679)であります。広嘉公は、病気の治療のため、京都に長く滞在しました。生来の聡明さと交流の才を発揮し、当時の画壇の筆頭狩野探幽等などと交流し、日本画などの真髄を学ぶなど日本文化への造詣を深めました。       広嘉公は、領主になる以前から錦川に流されない橋を   架ける構想を強く意識し、1659年若き棟梁児玉九郎右衛門を抜擢し、大月の猿橋の見学をさせています。さらに記録所役の能吏真田三郎右衛門、近習役の小河内玄可(こごうちげんか)など大橋創建の陣容を整えました。      なお、病気治療のため1664年招いた明の帰化僧・独立性易禅師(長崎在住)との対話の中で、独立禅師の故郷の名勝「西湖」が話題になり、『西湖遊覧志』を長崎より取り寄せ、西   湖に架かる蘇公の築いた六連の橋に注目します。そして錦川に島(石組みの橋脚)を構築するヒントを得たのであります。     それは吉川家高祖・藤原南家のものづくりの伝来の遺伝子がも   たらした天啓とも言えましょう。   広嘉公は、大橋架橋の基本的な構想の「流されない橋」の命題に加え、狩野探幽から受けた「人的建造物は周りの風景との調和し慎ましやかで風雅な容姿を重んじるべきである」との日本文化の趣向を取り入れるべく架橋技術者達に伝えました。     大橋架橋発想から14年もの歳月が流れ、その間いろいろな試行準備がされ、1673年出来上がったものが現在の錦帯橋の容姿であります。まさしく周りの城山の照葉樹林の緑・清流錦川の青   と調和し、慎ましやかで風雅な木組みの五連 ( いつら ) 反り橋であります。無塗装の白木造りで、反り高は極限まで低く、5列の木組みの迫持式拱助桁を和鉄の巻金と鎹で結束した超長径   間の反り構造であり、4個の反りのある紡錘状の石組橋脚は、多くの石を用いた護床工が施されています。原材料の木材・和鉄・石材は近燐から調達されました。錦帯橋は世界に類例のない   日本近世の文化財であり、 Sustainable ...

(旧HP巻頭エッセイ48)2022年9月 奏でる短歌(3)川野 里子歌集『歓待』 和嶋 勝利

    「はまなすが咲く頃」「はまなすが咲く頃」そこから先のあらぬ知床                       川野里子『歓待』  話せなくなれども歌はよみがへる不思議な母が歌ふ知床 老耄の母と疲れたわれ歌ふ呻きのやうな知床の歌   歌集『歓待』は、川野の母の死から逆編年体で編まれている。母との記憶を遡ろうという川野の意図である。身体が弱って話せない母、また、川野自身が「老耄」と表現するその母が「知床旅情」を口ずさんでいる。音楽がもたらす恩恵なのだろう。母を冷静に見守ってきた川野が「不思議な」と表現する。この戸惑いに川野のやさしさとかなしさがある。しかし、母の歌は、「はまなすが咲く頃」から先に進まない。   「知床旅情」は、次のように始まる。        知床の岬に はまなすの咲くころ               「知床旅情」作詞:森繁久彌   このことから、母の歌は、ほぼ曲のはじめのところから進まないということになる。川野も母にあわせて歌おうとするが、それは「呻き」のようであるという。この「呻き」とは、川野の嘆きであり、ほとんど嗚咽なのではないか。 『歓待』は、その冒頭から読者の胸を締め付けるが、掲出歌がある「知床旅情」の一連も印象に強く残った。   ところで、森繫久彌による「知床旅情」だが、俳優の山崎努が日本経済新聞の「私の履歴書」のなかで以下のように述べていた( 2022 年 8 月 22 日)。   あの名曲「知床旅情」はこの映画(和嶋注:「地の涯に生きるもの」)の宴会シーンで森繫さんが即興で作詞作曲したものである。   「地の涯に生きるもの」が 1960 年の映画で、川野里子が生まれたのが 1959 年であることから、「知床旅情」は川野の母にとって川野の成長の思い出のような曲なのではないか。例えば子守唄のような。だから母は川野との二人きりの時間に思い出し歌いだしたのではないか。そんな想像にかき立てられた。 しかし、それは見当はずれであった。「知床旅情」は、まず、 1963 年に「オホーツクの舟唄」としてレコーディングされていた。この「オホーツクの舟唄」と「知床旅情」では歌詞が違う。「オホーツクの舟唄...

(旧HP巻頭エッセイ47)2022年8月 お茶とおやつ 里見 佳保

        いろんな人に読んでもらわなくても、よい歌だと言われなくても自分のために作る歌というものがある。それも大切な歌の領域だとしみじみ思う。       いくつかの自作の歌を読みなおすと楽しかった時間を鮮やかに思い出すことができる。歌は場面を描くことが得意な詩形だから。何気なく作った歌の方が時間が経つとまぶしく見えてくることもあるから不思議だ。      子育ての時間は長いようであっという間に過ぎてしまうもの。子どもたちには何もしてあげられなかったけれど、お茶とちょっとしたおやつを用意していっしょに話す時間を持つようにしていた。用意するのは基本的に熱いお茶である。冷たい飲み物はひといきに飲んでしまう。それに対して   熱い飲み物は味わう時にゆっくりと時間をかけなければならない。この時間がいいのだ。      やけどの心配もあるので、熱いお茶を楽しめるようになるのはちょっと大きくなってから。熱いカップは成長の証でもあった。      日本茶の時も紅茶の時もココアの時もゆっくりと一口ずつ飲みながら。話すことより聞くことを少し多めに。      おやつは買ってきたものの時もあれば、家で作ったものの時もある。チョコやクッキーのこともあれば、焼き芋やきゅうりの浅漬け、なんてこともあった。        ああ、そうだ。お茶とおやつは子どものためだけではなく、私自身のために必要なものだったのだ。歌を読むとそれがわかる気がする。自分の子育ての歌があるということは写真のアルバムのほかにもう一つことばのアルバムを持っているようなものだ。子どもたちも楽しかったのだろうか。いつかなつかしく思い出してくれるとうれしいのだけれど。         風生れて麦も家族もそよぎたり季節みじかきものなびき合う            三枝昴之『太郎次郎の東歌』

(旧HP巻頭エッセイ46)2022年7月 「歌枕」展 千家 統子

       歌枕をテーマにした美術展に行ってきた。古来歌に詠まれた地名にちなんだ意匠の屏風や、蒔絵の硯箱、櫛、衣装、陶芸   作品、そしてそれらの和歌の水茎麗しい書、等々、和歌が日本の美術に果たした重要性に納得の展示だった。古代から現代まで著名な作者も無名の作者も歌枕にインスピレーションを得て、創作をしているが、それは時代が移り変わっても、その作品の美しさだけでなく、テーマを理解し歌枕の持つ物語を愛でる人々の存在があってこそ作り続けられてきたのだろう。        華やかな色彩や蒔絵などに彩られた具体的な絵柄作品がほとんどの展示の最期に江戸時代の伊万里の皿があり、今回この作品がとても心に残った。円形の皿の半分は瑠璃釉の深い紺、もう半分は柿釉の茶色に染め分けられ、紺色の中に白く丸文が抜かれたシンプルなデザインである。江戸時代に随分モダンでおしゃれと思ったが、歌枕はどこなのだろうか。      プレートには銘「武蔵野」とある。たちまち深い紺は夜の空、柿釉の茶は、果てしなく広がる武蔵野の平原、白い丸文は地平近くに浮かぶ月となった。              ゆく末は空もひとつの武蔵野は草の原より出づる月影                       藤原良経           入る方の山の端もなき武蔵野のあくともよはの月やのこらん                       後宇多院    実業家で茶人だった北村謹次郎の蒐集品であったこの皿に「武蔵野」と名付けたのは、北村と親交があった写真家の土門拳だそうだ。円と半円だけで構成されたこの丸皿が「武蔵野」と名付けられたとき、この数寄者と写真家にはいく時代を経ても変わることない、そして現実にはない武蔵野がありありと見え、「これこそよ」と膝を打ったのではないかとさえ思ってしまった。この皿がはじめから武蔵野を意図していたものかは...

(旧HP巻頭エッセイ45)2022年6月 鮎と森のものがたり 原田 俊一

 鮎と森のものがたり  原 田 俊 一        川魚の代表的名魚に「鮎」がある。アユ科の硬骨魚で香魚   とも呼ばれる。春に海より川へ遡上し、6月頃成魚となる。       古来、宮廷でも重宝され、奈良朝には鮎漁を管理する「鵜飼部」があり、吉野川等で鵜飼が営まれ、鮎が献上された。   島根県益田市高津沖の日本海に注ぐ高津川の鮎が日本   一美味しいと地元の人は自慢する。        高津川漁(協)のカタログによると ⅰ 高津川は一級河川ながらダムが無くまた上流に人家が少なく、 昔ながらの自然環境を維持している屈指の清流である。    ⅱ 春になると海より遡上する天然稚鮎が成長したものである。 ⅲ 良質の苔を食べ、香り豊かに成長する。 とある。良質な苔は如何にして生育するのか?それは森と   関係があることが分かってきた。    高津川の流域は古来ブナやナラの温帯林であり、その落葉による腐食層はフルボ酸を生み、植物プランクトンや川苔の生育に必要なフルボ酸鉄を生成する。高津川には流域の森からフルボ酸鉄が流出し、鮎の餌の苔を生育する環境が長い年月により生成され、現在でも持続されている。      鮎が豊富であった故か、高津川の鵜飼は独特な「放ち鵜漁」   であつた。鵜匠は鵜を吾が児のように育て、信頼関係を結び、漁期に子飼いの鵜を川に放つと報恩の若鮎を鵜匠に貢いだ。   鵜匠の死を知らない鵜が、鵜匠の亡き後もせっせと鮎を漁場に盛ったと言う民話が今に伝わる。    なお、万葉の歌聖「柿本人麻呂」も高津川の流域の戸田村に   生まれ育ったとの説がある。きっと鮎の塩焼きを頬張って食べたであろうと想像すると愉快である。          高津川の苔を求めて遡る尾鰭しなやか稚鮎の群舞    鵜匠亡き後も飼い鵜はけなげにも鮎を貢ぎし哀話伝える             ...

(旧HP巻頭エッセイ44)2022年5月 奏でる短歌(2)「凍るピアノ」考 和嶋 勝利

      プーチン大統領によるウクライナ東部で軍事作戦を開始するという発表から、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。      2022 年 2 月 24 日のことであった。      これを受けて「りとむ」 2022 年の 5 月号でもウクライナ侵攻を題材にした作品が散見された。次の作品もそのなかの一首だ。            凍るピアノ 西へ東へ流離えど共に叩きしキエフ大門                                            沖 荒生「りとむ」 2022 年 5 月号  掲出歌については、まず、掲出歌のある「非戦詠」がウクライナ侵攻を批判することを主題とした一連であったことから、掲出歌もその流れを引き継いだ作品であることは容易に理解できた。  次に、「キエフ大門」についてネットで検索した。実際にある建造物のようだが、ここでは、ムソルグスキー作曲による「展覧会の絵」の終曲であろうと推察した(ネット上では、ウクライナ侵攻に際し、「展覧会の絵」の「キエフ大門」を思い返したという書き込みが多く見受けられた。)。   また、同曲にはさまざまな編曲があるが、初句に「凍るピアノ」とあることから、掲出歌の「キエフ大門」は、ピアノ組曲として解釈した(この時ぼくは、「エマーソン、レイク&パーマー」を思い出した。)。  「キエフ大門」が何であるか分かったところで、「ウクライナという国家が西側や東側のイデオロギーをさすらおうとも、(ロシア・ウクライナの奏者が)ともに奏でた『キエフ大門』よ」という掲出歌の通釈の骨格も見えてきた。         問題は「凍るピアノ」である。何かの寓意であることは間違いない。ぼくはここで、戦禍に巻き込まれウクライナ市...

(旧HP巻頭エッセイ43)2022年3月 ことばの育ち 里見 佳保

  先日、言語聴覚士の中川信子先生の講演を聴く機会があった。コロナの影響のため、 ZOOM での開催に変更となったが、心動かされる内容だった。  言語聴覚士はことばによるコミュニケーションに課題がある人を支援する専門職。対象としているのは脳卒中後の失語症や聴覚障害、ことばの発達の遅れ、声や発音の障害など多岐にわたる。言語聴覚士は成人対象として働く人が多いが、小児対象の言語聴覚士はニーズに対し、まだまだ少数なのだという。    子ども分野の言語聴覚士はことばがはっきりしない、ことばが遅い、どもる、落ち着きがない、友だちと遊べないなどのお子さんと楽しく遊び、相談にのる仕事であり「ことばが増えるのが遅いんです。どうしたらことばが増えるでしょうか。」という質問がよく寄せられる。そんな問いに対して一番育てたいのは伝えたい気持ちであるということ。そのために必要なのは「聞いてくれる」と信頼できる相手であるということ。ことばは引き出すのではなく、ことばが思わず出てくるような存在に周りがなること。などを伝えているという。    歌作りでも、やっぱり根っこにあるのは伝えたい気持ちや信頼できる相手だなあと思った。短歌では思い切った省略がなされる。主語であったり、状況だったり、長く詳細に説明することはできないけれど、歌という共通のかたちがあることで読む人に受けとめてもらえるのだと信じて託す。  そして歌を読む時にはその作者の思いを受けとりたいと願って文字には書かれていない部分を読み取ろうとしている。伝えたい気持ちがある喜び、伝えたい相手がいる喜びを静かに思う春の一日だった。     幼な子にはじめての虹見せやればニギといふその美しきにふるへ  米川千嘉子『一夏』