(旧HP巻頭エッセイ26) 2020年5月 方言 千家 統子  


 方言はその地方では当たり前のように使われていて、進学などで他の地域に行ったとき「それ何?」と聞かれて初めて方言だと気が付くことがある。私は高校まで『砂の器』で有名になった出雲弁が話される地方にいたが、母が東京の生まれ育ちだったので、家の中ではほとんど標準語(何が標準なのか、これまた問題ではあるが)だった。

 それでも方言のいくつかは自然に身につき、「指にシバリが立った」と言ったとき、東京の友達に「何?」と聞かれた。小さな棘のことだ。「テボタン」「アヤクチャ」などもその友人にはわからなかったようだ。それぞれ、線香花火、乱雑な様子、なのだが、手牡丹などは線香花火より 雅な感じがしてとてもいい言葉だと思う。

 

ところで、各家庭にもその家限定に近い家族方言があると思うのだが、どうだろうか。我が家で「ギリギリ」といえば通じるものがある。これは、私の母方の祖母の祖母からの言葉らしいので、五代さかのぼる。ミトコンドリアのごとく女系で伝わっているのだ。何のことかといえば、木製の窓や戸についている「ねじ締り鍵」のこと。日本では明治になるまで一般にネジはほとんど使われていなかったそうで、かなりハイカラだったらしい先祖が、いち早く取り入れたらしい。鍵をくるくる回してねじ込み、窓などをきっちり締める動作は物珍しく、「ギリギリと 回して閉める鍵」と体感したことから「ギリギリ」と呼ぶようになったと思われる。電子レンジの「チン」も似たようなものだろう。昭和40年代半ば、友人が「りんごに蜂蜜をかけチンする」と言ったとき、まだ電子レンジを知らなかった私は何のことかわからなかったが、我が家に電子レンジが来たその日に了解した。そして「チン」は今では全国区の表現になった。

 

「ギリギリ」は、他の家庭ではまず通じないし、「ギリギリ」そのものが我が家になくなったし、従姉妹たちの家にもないので、親戚内でも死語になりつつある。当時目新しい最新式のモノを使ってみた感覚を、「ギリギリ」「チン」と、オノマトペで表現することで、生活の中にさらっと取り入れられたのかもしれない。

 

私は「ギリギリ」の鍵が好きだ。あの、キュッと締め終わる感じが、確かに戸締りをした気分になったものなのに。

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