(旧HP巻頭エッセイ32)2021年1月 樋口智子歌集『幾つかの星』について 和嶋 勝利
扉開け次々呼ばれる診察の今日も慌しく入れ替わる眼よ
まずは、仕事のうたについて。作者は眼科医に勤務していた。よって仕事柄どうしても患者の眼が気になる。一日のうちに 夥しい数の患者が診察のため扉を開けて診察室に入ってくる。 すると、「どんな眼の病なのか。」または「その後の病状はどうか。」と、作者は初めに患者の眼を見てしまうのだ。 一首からは、そんな作者の素直な心の動きが読み取れる。 お客が金に見える商売人もいるかもしれない。そういう意味では、作者は大変真面目に眼科医という職場に従事していることが分かる。
作者は三人目のお子さんが授かった際に退職した。 同僚らも貴重な人材を失ったと嘆いているに違いない。
靴下のかえりゆく国あるらしく今夜も片方失くしてきたり
おかあさん電池「お」からだんだん薄くなり「さん」が 明滅 布団に入る
ずいぶんと遠いところへ来たような 一昨年はもう母だった
次に、母のうたについて。作者の子は、靴下の片方だけをよく失くすようだ。子供の行動にはいろいろと不思議なものがあるが、これもその一つだ。靴下の、しかも片方だけを失くしてしまうとはどういうことだろう。しかし、それを作者は、 「靴下のかえりゆく国あるらしく」と詩的にやさしく受け入れる。この受け止めがいい。
二首目は〈母〉奮闘中の作品だ。エネルギーを使い果たした自身を電池に見立てている。お・か・あ……さん、でバタンと倒れ込むように布団に入るという表現に工夫があって楽しい。
そんな毎日のなかで、ふとわれに返る溜息のような感慨のような三首目も、作者の気持ちを素直に述べたもの。気取らない人柄がよく表れた作品である。
一昨年から昨年にかけて刊行された、齋藤芳生『花の渦』、 高木佳子『玄牝』、梶原さい子『ナラティブ』は、いずれも 40歳代の作者による歌集であった。三歌集とも東日本大震災を大きく取り上げているという共通点があったが、その他にも 震災の被害とは別 の肉親の死がうたわれていた。
『幾つかは星』でも母の死がうたわれている。40歳代とはそう いう世代なのだろう。その意味では、『幾つかは星』も先の三歌集 と同一線上にある歌集であるということができる(作者は、その後に胆振東部地震を経験している。)。
同世代歌人が注目されるなか、今後も作者の活躍が見逃せない。
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