(旧HP万葉カフェ5)2020年1月 

 生まれ故郷への愛着というものは、年齢とともに深まってゆくものかもしれません。最近、生まれてから十歳まで過ごした東京の根岸界隈がとても懐かしく思われます。


    正岡子規の木造旧居は中村不折の旧宅だった洋館(現書道博物館)と向き合っており、その路地を通って、当時下町の学習院と呼ばれた根岸小学校に通いました。学校帰りの路地には踊りのお師匠さんの家から三味線の音が聞こえたり、隠れ家のような料理屋の門口に、毎日まっ白な塩が小さな円錐の山にこんもり盛られるのを見て、不思議に思ったものです。

    子規庵の隣は売れない小説家の住まいで同い年の娘がおり、よく遊びに行きました。板塀を隔てた隣が著名な文学者の旧跡とはつゆ知らず、狭い 草深い庭で隠れんぼなどしたものです。

    成人して短歌と関わるようになって初めて「子規庵」を訪れた時、造りも広さも自分が育った家とよく似ており、実家に帰ったような印象を持ちました。

   実家はとうに無く、「子規庵」の畳の部屋で手足を投げ出して昼寝が出来たらなあ、とひそかに思うこの頃です。

     近代短歌の大きな主題の一つに望郷がありました。晶子の堺、啄木の渋民、茂吉の金瓶、白秋の柳川など、産土の地はそれぞれの作品にエネルギーを与え、幾つもの秀歌が詠まれています。もっとも、彼らはみな若く、 加齢とは関わりなく「ふるさと」を歌いました。

     それは、若き日本の近代国家創成の時期にあたり、地方出身者が大量  に新都東京に移り住んだ時代背景と関わりがあるのでしょう。地方出身者 たちの望郷の念を汲み取るかのように、時代そのものが持つ気分を優れた歌人が歌い得た、ということかもしれません。

    万葉集の望郷歌といえば、令和の改元でいちやく有名になった大宰府長官の大伴旅人が思い出されます。神亀六(729)年、小野老(おののおゆ) の昇叙を祝い大宰府では祝宴が開かれたことが、巻三に記されています。

  宴の席で、官人の一人の大伴四綱が旅人に「藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君」と詠みかけ、旅人が連作で応えています。

  その一首目。

      わが盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ 

  二句目は「をち(つ)」が始めにかえること、特に若返る意味で使われます。  反語表現なので「また若返るだろうか、いやありえない」。三句は「大方、ほとんど」で、結句は「見ないままになるだろうか、見ずに終わってしまうので はないか」と訳します。四綱の問に直接応えず、不即不離の呼吸で都への思いを歌ったのは、大宰府長官の面目躍如というところ。上司があからさまに都を恋しがったら、部下の士気は萎えてしまいますから。

   けれども望郷の念は押さえがたく、次の歌が続きます。

      浅茅原つばらつばらに物思へば古りにし里し思ほゆるかも   

  浅茅原(あさちはら)の「ちはら」音から「つばらつばら」(つらつら)を引き出し、「物思へば」に続けています。

       忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため     

  上二句は古い習俗でしょうか。忘れ草は萱草(かんぞう)のことで、身に付けると辛さを忘れられると信じられていました。この二首の「古りにし里」とは、 旅人が生まれ育ち青春期を過ごした飛鳥の里に他なりません。平城京遷都 に伴い、大伴家の邸宅も佐保路に移されましたが、明日香こそ、旅人を育て  た揺籃の地であったのです。


(寺尾登志子)



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