年齢を重ねてありがたいと思うのは、振り返る時間の堆積に厚みが増した ことです。日々刻々と変容する外界に、心身が追いつけなくなってゆく代償 の果報でしょうか。来し方は感傷だけでなく、心細く不安な現在に揺らぐ心 の、自分だけのささやかな添え木のようにも思えるのです。 万葉集に触れたのは半世紀前、高校の教科書で出会った次の一首が、 その後連綿と続く万葉追慕のきっかけとなりました。 君が行く道の長手を繰り畳(たた)ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火 もがも 巻十五・3724 作者は狭野弟上娘子(さののおとかみのをとめ)、弟上でなく茅上(ち がみ)と伝える本もありますが、私の記憶には「弟上」で刷り込まれています。 一読して激しさにショックを受けました。 「あなたが行く道の、その長い距離をたぐりよせ、焼き滅ぼしてしまう天の 火が欲しい!」と天に拳を振り上げ、切なさのあまり泣き叫ぶ女人の姿が目 に見えるようです。 「君」とは官人の中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)、娘子も下級 の女官でした。目録(目次)によれば、宅守は娘子を娶ったとき勅勘を蒙り 越前へ流罪となりました。新婚の夫婦が都と越前の配所に生き別れ、悲嘆 の贈答歌が交わされ、巻十五は後半部にその63首を載せています。 天平11年(739)の事件ですが、宅守が何のために流罪となったのかは 分かりません。二人の結婚自体が、禁忌に触れるものだったとする説もあり ますが、娘子は天皇に仕える采女(うねめ)ではなく、律令体制が産んだ当 時のキャリアウーマン的存在ですから、何ともいえません。 新婚早々の二人は、今でいう国家官僚の共働きカップルです。新婚の 悲劇は当時宮廷内で評判となり、二人の歌群は後宮の女官たちなどの紅 涙を絞ったのではないでしょうか。 取りあげた一首は、歌群冒頭で夫との別れに臨んで歌われました。この歌、 万葉出...
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