(旧HP巻頭エッセイ42)2022年2月 斎宮遺跡から 千家 統子
新聞を開いても、殺伐とした記事が多くて、見出しをちらと見て紙面を閉じたくなることが多い今日この頃。それでも時に、目を引いてじっくりと読む記事の一つに、遺跡の発掘情報の記事がある。縄文時代から平安時代の遺跡だとなおのこと。
1月半ば、伊勢の斎宮遺跡で正殿跡発掘の記事が載っていた。遠い昔に途絶えてしまったのに、文学作品の中では今も存在感がある「斎宮」。斎宮遺跡というと私は、山中千恵子の次の歌を思い出す。
斎宮址に風字の硯出でしこと序章となさむ秋立ちにけり
風字硯は、硯面が漢字の「風」の部首「かぜがまえ」のように手前に向かって裾広がりになっていて、手前の縁がない硯で、四角い硯を見慣れた目には優しい感じがした。
今回発掘された正殿は7世紀後半から8世紀前半のものだというから、天武天皇から聖武天皇あたりになるのだろう。南北にひさしがあり、格式が高く儀式などに使われたものであるらしい。7世紀後半といえば大来皇女が674年に伊勢に下っているので、大来皇女が儀式を執り行っていた建物の可能性もあるのではないだろうか。弟の大津皇子は686年天武亡き後の謀反の罪を着せられて刑死する直前に大来皇女をここに訪ねている。万葉集や日本書紀の世界がぐっと現実的 に思われる。
私は長い間、伊勢神宮のすぐ近くに斎宮の住まいがあり、毎日神宮で祭祀を執り行うとばかり思っていたので、この遺跡を初めて訪ねた時、斎宮と伊勢神宮の間に近鉄の駅が5駅もあって、驚いた覚えがある。私が見た碁盤の目状に区画整備された遺跡は8世紀後半からのものらしいので、大来皇女の時代より百年あとの斎宮の姿ということになる。斎宮は人里離れた神さびた寂しいところと思っていたが、どうやら斎宮にかかわるあらゆる役所の建物が立ち並ぶ官庁街とでもいうべき場所だったようだ。私が訪問した折の斎宮駅前の様子からすると、現代の方がガランとしていて人がいないかもしれない。もっとも斎宮自身は内院といわれる厳重に囲われたところにいて、役人たちが行きかう街区とはかかわりのない日々ではあっただろうけれど。
斎宮という制度がなかったら、歌や物語など文学の世界はどんなに寂しいことになっていただろうか。源氏物語に、斎宮になった娘とともに伊勢に下る六条御息所との別れの「賢木」の巻が なかったら、伊勢物語に業平と斎宮の恋がなかったら、大和へ帰る大津を見送る大来の歌がそして挽歌がなかったら、源氏の「賢木」に因む謡曲「野宮」がなかったら……
山中は著書『斎宮女御徽子女王』を出土の風字硯から書き起こしている。「序章」とはこのことであると思われるが、あるいは斎宮あってこその数々の文学、芸能の序章でもあるということで はない だろうか。
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