(旧HP巻頭エッセイ47)2022年8月 お茶とおやつ 里見 佳保
いろんな人に読んでもらわなくても、よい歌だと言われなくても自分のために作る歌というものがある。それも大切な歌の領域だとしみじみ思う。
いくつかの自作の歌を読みなおすと楽しかった時間を鮮やかに思い出すことができる。歌は場面を描くことが得意な詩形だから。何気なく作った歌の方が時間が経つとまぶしく見えてくることもあるから不思議だ。
子育ての時間は長いようであっという間に過ぎてしまうもの。子どもたちには何もしてあげられなかったけれど、お茶とちょっとしたおやつを用意していっしょに話す時間を持つようにしていた。用意するのは基本的に熱いお茶である。冷たい飲み物はひといきに飲んでしまう。それに対して 熱い飲み物は味わう時にゆっくりと時間をかけなければならない。この時間がいいのだ。
やけどの心配もあるので、熱いお茶を楽しめるようになるのはちょっと大きくなってから。熱いカップは成長の証でもあった。
日本茶の時も紅茶の時もココアの時もゆっくりと一口ずつ飲みながら。話すことより聞くことを少し多めに。
おやつは買ってきたものの時もあれば、家で作ったものの時もある。チョコやクッキーのこともあれば、焼き芋やきゅうりの浅漬け、なんてこともあった。
ああ、そうだ。お茶とおやつは子どものためだけではなく、私自身のために必要なものだったのだ。歌を読むとそれがわかる気がする。自分の子育ての歌があるということは写真のアルバムのほかにもう一つことばのアルバムを持っているようなものだ。子どもたちも楽しかったのだろうか。いつかなつかしく思い出してくれるとうれしいのだけれど。
風生れて麦も家族もそよぎたり季節みじかきものなびき合う
三枝昴之『太郎次郎の東歌』
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