(旧HP巻頭エッセイ48)2022年9月 奏でる短歌(3)川野 里子歌集『歓待』 和嶋 勝利

    「はまなすが咲く頃」「はまなすが咲く頃」そこから先のあらぬ知床

                      川野里子『歓待』

 話せなくなれども歌はよみがへる不思議な母が歌ふ知床

老耄の母と疲れたわれ歌ふ呻きのやうな知床の歌

 

歌集『歓待』は、川野の母の死から逆編年体で編まれている。母との記憶を遡ろうという川野の意図である。身体が弱って話せない母、また、川野自身が「老耄」と表現するその母が「知床旅情」を口ずさんでいる。音楽がもたらす恩恵なのだろう。母を冷静に見守ってきた川野が「不思議な」と表現する。この戸惑いに川野のやさしさとかなしさがある。しかし、母の歌は、「はまなすが咲く頃」から先に進まない。

 

「知床旅情」は、次のように始まる。

 

     知床の岬に はまなすの咲くころ

              「知床旅情」作詞:森繁久彌

 

このことから、母の歌は、ほぼ曲のはじめのところから進まないということになる。川野も母にあわせて歌おうとするが、それは「呻き」のようであるという。この「呻き」とは、川野の嘆きであり、ほとんど嗚咽なのではないか。

『歓待』は、その冒頭から読者の胸を締め付けるが、掲出歌がある「知床旅情」の一連も印象に強く残った。

 

ところで、森繫久彌による「知床旅情」だが、俳優の山崎努が日本経済新聞の「私の履歴書」のなかで以下のように述べていた(2022822日)。

 

あの名曲「知床旅情」はこの映画(和嶋注:「地の涯に生きるもの」)の宴会シーンで森繫さんが即興で作詞作曲したものである。

 

「地の涯に生きるもの」が1960年の映画で、川野里子が生まれたのが1959年であることから、「知床旅情」は川野の母にとって川野の成長の思い出のような曲なのではないか。例えば子守唄のような。だから母は川野との二人きりの時間に思い出し歌いだしたのではないか。そんな想像にかき立てられた。

しかし、それは見当はずれであった。「知床旅情」は、まず、1963年に「オホーツクの舟唄」としてレコーディングされていた。この「オホーツクの舟唄」と「知床旅情」では歌詞が違う。「オホーツクの舟唄」は「オホーツクの海原 ただ白く凍て果て」と始まるのである。

川野の母の歌は、「はまなすが咲く頃」であるから、「知床旅情」であり「オホーツクの舟唄」ではない。

 

その後、1965年に森繫久彌が「しれとこ旅情」としてリリースし、1970年の加藤登紀子の「知床旅情」により大ヒットとなった。

 

『歓待』は「記憶」が通奏低音となっている。

掲出した二首目の「歌はよみがへる」に、河野の切実な思いを読み取る。

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