(旧HP巻頭エッセイ49)2022年10月 錦帯橋の魅力の原点 原田 俊一
錦帯橋の創建者は吉川広嘉公(吉川家第19代・岩国第3代領主1621~1679)であります。広嘉公は、病気の治療のため、京都に長く滞在しました。生来の聡明さと交流の才を発揮し、当時の画壇の筆頭狩野探幽等などと交流し、日本画などの真髄を学ぶなど日本文化への造詣を深めました。
広嘉公は、領主になる以前から錦川に流されない橋を 架ける構想を強く意識し、1659年若き棟梁児玉九郎右衛門を抜擢し、大月の猿橋の見学をさせています。さらに記録所役の能吏真田三郎右衛門、近習役の小河内玄可(こごうちげんか)など大橋創建の陣容を整えました。
なお、病気治療のため1664年招いた明の帰化僧・独立性易禅師(長崎在住)との対話の中で、独立禅師の故郷の名勝「西湖」が話題になり、『西湖遊覧志』を長崎より取り寄せ、西 湖に架かる蘇公の築いた六連の橋に注目します。そして錦川に島(石組みの橋脚)を構築するヒントを得たのであります。
それは吉川家高祖・藤原南家のものづくりの伝来の遺伝子がも たらした天啓とも言えましょう。
広嘉公は、大橋架橋の基本的な構想の「流されない橋」の命題に加え、狩野探幽から受けた「人的建造物は周りの風景との調和し慎ましやかで風雅な容姿を重んじるべきである」との日本文化の趣向を取り入れるべく架橋技術者達に伝えました。
大橋架橋発想から14年もの歳月が流れ、その間いろいろな試行準備がされ、1673年出来上がったものが現在の錦帯橋の容姿であります。まさしく周りの城山の照葉樹林の緑・清流錦川の青 と調和し、慎ましやかで風雅な木組みの五連(いつら)反り橋であります。無塗装の白木造りで、反り高は極限まで低く、5列の木組みの迫持式拱助桁を和鉄の巻金と鎹で結束した超長径 間の反り構造であり、4個の反りのある紡錘状の石組橋脚は、多くの石を用いた護床工が施されています。原材料の木材・和鉄・石材は近燐から調達されました。錦帯橋は世界に類例のない 日本近世の文化財であり、Sustainable Development Forever な建造物で、一橋ごとの解橋復元を約20年おきに行い、来年は 350年を迎えます。
短歌一首
水墨の風趣あらわし錦川にひそやか架かる五連(いつら)反り橋
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