(旧HP万葉カフェ15)2020年12月

  笠女郎(かさのいらつめ)その五


今回は、女郎が家持への激しい思慕を華麗に歌いあげた四首を読んでみます。「恋」といえば、今の若い人達は胸いっぱいの甘酸っぱいときめき、と思うようですが、万葉集で歌われる「恋」は、相手に逢えない悶々とした辛さのことでした。笠女郎は、豊かな語彙と技巧の粋を尽くして、「恋」を歌いあげています。


・君に恋ひ いたもすべなみ 奈良山の 小松が下(もと)に立ち嘆くかも 巻五 593

 二句目「いたも」の万葉仮名は「痛毛」で、「痛いほどひどく」の意味、「も」は強めです。「すべなみ」は「術が無いので」と訳します。

〈あなたに逢いたくてもうどうしようもなく、奈良山の小松の下で立ち嘆くばかりです〉

「奈良山」は佐保路の北側にある丘陵で、大伴邸の裏手の山のような所ですから、家持は思わず仰け反ったのではないでしょうか。女郎のイメージの中の映像であつても、具体的な地名のインパクトは絶大ですし、また、「松」は神が降臨する聖なる木、その樹下に立ち嘆くとあれば、神霊の力さえ女郎に加担しそうです。


・我がやどの 夕影草の 白露の 消(け)ぬがにもとな 思ほゆるかも  594

 四句の「消(け)」は「消え」の古形で「ぬ」は完了の助動詞、「がに」は「~しそうに」、「もとな」は「わけもなく」と訳します。

〈庭の夕影草に宿る白露が、消え入るようにわけもなく、あなたのことが思われてなりません〉

「夕影草」は夕光の中の草のことで、女郎の造語と言われています。この歌、上三句が「消」の序詞で、あなたを思うあまり、私は消えてなくなりそうだと、一途で可憐な恋心を見つめています。小松の樹下でドラマチックに悲嘆した前歌とは、その対照に妙味があります。


・我が命の 全(また)けむ限り 忘れめや いや日に異(け)には 思ひ増すとも 595

二句の「全けむ」は「完全だ、無事だ」という形容詞「全し」の未然形に、推量の助動詞が付いています。三句は「忘れるだろうか、いや、忘れない」という反語表現、四句の「異に」は「きわだって」の意味です。

〈私の命の及ぶ限り、忘れるでしょうか、決して忘れません。いよいよ日増しにあなたへの思いは増すことはあっても〉

ここでは、直接相手に訴えずに「何があっても私は忘れません!」と宣言して、命懸けの恋、どう受けて立たれます?と家持に迫っている気配です。


・八百日(やほか)行く 浜の沙(まさご)も 我が恋に あにまさらじか 沖つ島守 596

「八百日」は長い日数、四句の「あに」は「決して」の意味です。

〈何日も何日もかけて行く長い浜辺の砂の分量も、我が恋の熱量には決して勝らないでしょうよ。ねえ、沖つ島守さん〉

冒頭二首に比べて、上二句の大げさな表現と結句の「沖つ島守」への呼びかけが印象的です。求めて癒されない恋心は、奈良山や夕影の庭から、ついには大海原広がる浜辺へと想像の翼を羽ばたかせます。  「沖つ島守」からは、壱岐島や対馬に配備された防人が連想されますが、虚構の第三者は家持その人を揶揄しているように思えます。

こんなに近くにいる私を見もしないで、架空の敵ばかり気にしているあなた様は、恋の風雅にほど遠い朴念仁ですか?という当て擦りかもしれません。


家持の叔母は、大伴本宗家の精神的支柱であった歌人、大伴坂上郎女であり、やがては姑となるこの叔母から家持は相聞歌の手ほどきも受けていましたけれども、現実的な恋愛関係を持った女性歌人の技量には圧倒され続け、同時に、三十一文字のヤマト歌が持つ魅力の虜になったともいえそうです。

(寺尾 登志子)

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