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(旧HP万葉カフェ 10)2020年6月

   丹沢山塊や相模阿夫利嶺の南面に位置する秦野盆地は、四季折々い ろいろな鳥が鳴き声を競います。早春に拙かったウグイスの鳴き音が、美 しい歌声に変わる頃、夏を告げるホトトギスの出番です。甲高く「きょきょきょ っ、きょきょ!」と鳴く声は、まるで「我、ここにあり!」と名告りを挙げている かのようで、深夜や明け方に聞くと、ふと異次元空間に紛れ込むような興 趣を覚えます。万葉歌人がこの鳥に強く愛着したのも、むべなるかな、と思 えるのです。  その中で高橋虫麻呂の作品は、ひときわ異彩を放っています。虫麻呂は ホトトギスの「托卵」という習性に注目して一篇の長歌と反歌を作りました。  うぐひすの 卵(かひご)の中に ほととぎす ひとり生まれて 汝(な)が父 に  似ては鳴かず 汝が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺ゆ  飛び翔(かけ)り 来鳴き響(とよ)もし 橘の 花を居散らし ひねもすに   鳴けど聞きよし 賄(まひ)はせむ 遠くな行きそ 我がやどの 花橘に   棲みわたれ鳥                                                      (巻九・1755)   反歌  かき霧(き)らし雨の降る夜をほととぎす鳴きて行くなりあはれその鳥 イスのさえずりを想像させつつホトトギスの鳴き声を思わ せ、卯の花と橘とを取り合わせています。「賄はせむ」は、「お礼はするよ」 の意で、お礼はするから遠くには行かないで、わが庭の花橘にずっと棲ん でいておくれ、と鳥に哀願するのです。一方、反歌でかき曇る夜空に鳴く 声をあわれ、と歌うのも忘れません。  ホトトギスは主にウグイスの巣に托卵するそうですが、奈良時代すでにそ ん...

(旧HP万葉カフェ9)2020年5月

  自粛による蟄居が続いています。毎日無事に送れることが何より有り難い 時節、春先にはおずおずと試し鳴きだったウグイスが、青葉の中で誇らし げにさえずったり、庭のヘビイチゴの紅い実に朝露が光っていれば、翳り がちな気持もほんのりと明るみます。  そんな折、毎日新聞の夕刊で澤田瞳子による歴史小説の連載「恋ふら む鳥は」が始まりました。万葉屈指の女性歌人「額田王」を主役とするもの で、一年間という長丁場が予定され、万葉ファンのみならず古代史愛好家 も楽しませてもらえそうです。  額田王については、『万葉集』が伝える十二首と『日本書紀』の天武二 年二月の条に「天皇、初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶りて、十市皇 女を生(な)しませり」とあるだけで、その実像は深い歴史の闇に閉ざされて います。歴史資料の読み込みに定評のある作家の筆力が、どんな歌人像 を浮き彫りにしてゆくか。巣ごもりの日々に、夕刊を待つ楽しみが増えました。  「恋ふらむ鳥」というタイトルは巻二にある、弓削皇子との贈答歌から引 用されています。持統女帝の行幸に随行した弓削皇子は、吉野から倭京 (飛鳥)の額田へ次の歌を贈りました。天武亡き後、かつての華やかな活躍 の場は無く、額田はひっそりと老いの身を養っていました。    いにしへに恋ふる鳥かもゆづりはの御井の上より鳴き渡り行く   巻2・111  「昔のことを恋う鳥でしょうか。ユズリハの樹のある御井の上を鳴きながら 飛んで行くのは。」天武の皇子でありながら持統の御代に不遇だった弓削 皇子は「懐旧の鳥」に自らを投影しています。そして、同じく過去の人となっ た額田と哀愁を分かち合おうとしたのでしょう。  また弓削皇子は「昔を恋う鳥とは何か、ご承知ですか」という問いかけも しています。中国の故事によると、ホトトギスは懐古に悲嘆して啼く鳥とされ ていましたから。    いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし吾が思へるごと   巻2・112  「昔を恋うて啼くのはほととぎすですね。もしや、私が昔を恋い慕って鳴 くように、啼いていたのでしょう。」額田は弓削皇子の思いを汲み、遠き天智 天武の世を懐かしみながら、身に付けた教養もさらりと示しています。  弓削皇子との贈答歌によって、額田の晩年に最後の輝きが添えられました。 (寺井登志子)   

(旧HP万葉カフェ8)2020年4月

   年齢を重ねてありがたいと思うのは、振り返る時間の堆積に厚みが増した ことです。日々刻々と変容する外界に、心身が追いつけなくなってゆく代償 の果報でしょうか。来し方は感傷だけでなく、心細く不安な現在に揺らぐ心 の、自分だけのささやかな添え木のようにも思えるのです。    万葉集に触れたのは半世紀前、高校の教科書で出会った次の一首が、  その後連綿と続く万葉追慕のきっかけとなりました。       君が行く道の長手を繰り畳(たた)ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火 もがも     巻十五・3724    作者は狭野弟上娘子(さののおとかみのをとめ)、弟上でなく茅上(ち がみ)と伝える本もありますが、私の記憶には「弟上」で刷り込まれています。   一読して激しさにショックを受けました。      「あなたが行く道の、その長い距離をたぐりよせ、焼き滅ぼしてしまう天の 火が欲しい!」と天に拳を振り上げ、切なさのあまり泣き叫ぶ女人の姿が目 に見えるようです。      「君」とは官人の中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)、娘子も下級 の女官でした。目録(目次)によれば、宅守は娘子を娶ったとき勅勘を蒙り  越前へ流罪となりました。新婚の夫婦が都と越前の配所に生き別れ、悲嘆 の贈答歌が交わされ、巻十五は後半部にその63首を載せています。    天平11年(739)の事件ですが、宅守が何のために流罪となったのかは 分かりません。二人の結婚自体が、禁忌に触れるものだったとする説もあり ますが、娘子は天皇に仕える采女(うねめ)ではなく、律令体制が産んだ当 時のキャリアウーマン的存在ですから、何ともいえません。     新婚早々の二人は、今でいう国家官僚の共働きカップルです。新婚の 悲劇は当時宮廷内で評判となり、二人の歌群は後宮の女官たちなどの紅 涙を絞ったのではないでしょうか。     取りあげた一首は、歌群冒頭で夫との別れに臨んで歌われました。この歌、 万葉出...

(旧HP万葉カフェ7)2020年3月  

   新型のコロナウィルス禍で自宅に籠りがちですが、おかげで今年は  三月一日にウグイスの初音を聞きました。草木も次々と芽吹き始め、彼岸 すぎには花々が競うように咲き溢れ、めぐりは春たけなわの風情です。      「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」  祝婚歌 の定番として名高い前田夕暮の作品ですが、夕暮も故郷秦野盆地の春を 思い描いて歌ったのでしょう。薄緑にけぶる丹沢や大山に、辛夷、きぶし、 すもも、木蓮など、木々の花が彩りを添えています。そんな山並みに向かっ   ていると、心もほのかに明るむようで人懐かしい気分になるものです。     万葉集の相聞歌で「春山」を詠んだのは笠女郎(かさのいらつめ)でした。  恋の相手は、若き日の大伴家持です。        水鳥の鴨の羽色(はいろ)の春山のおほつかなくも思ほゆるかも                                              巻8・1451     「水鳥の鴨の羽色」とはオスのマガモの美しい頭部の青緑色を表します。   春山の初々しい青みを言いながら、水辺に遊ぶ鳥の姿も浮かばせる所が 韻文ならではの味わいで、その「春山のように(霞んでぼんやり)」と下の句 に続きます。「おほつかなく」は清音ですが現代語の「覚束ない」とほぼ同じ く、相手の心がはっきりせず不安だと言っています。                  上の句の景色は下の句の心情を引き出す序詞で、おぼろに霞む春山と 水鳥の景を優美に添えながら、煮え切らない男にはっきりさせてよと迫って おり、歌の巧さもさることながら、恋の手管もなかなかだったようです。    笠女郎が家持に贈った恋歌は全部で29首ありますけれども、家持の   返歌は一首もあ...

(旧HP万葉カフェ6)2020年2月 

   地元の工務店さんが作った在来工法の古い家屋に住んでいるので、  昨今の穏やかならぬ四季の巡りに不安を感じることがあります。拙宅は丹 沢山塊や相模大山の麓にあり、美しい里山の風景を折に触れて楽しめる 所ですが、河岸段丘の斜面の高みにあたり、風当たりの強いことは並大抵 ではありません。殴りつけるような風雨のあと、じんわりと壁や天井に滲みが 出来ているのを何度か発見しました。     雨漏りしたらどうしよう、漏電はしないだろうか、などと心配はするものの、 子ども達が巣立った愛着のある古家ですから、だましだまし手を入れなが ら住み続けたいと願うのが人情です。宿主とともに家も老いゆくものと思え ば、互いに労りながら過ごしてゆこうと達観した心持ちにもなるのです。     昨夜は、まだ二月だというのに春の南風が強く吹き、明け方に目が覚めてし まいました。暗がりの中で風の音を聞いていると、北側のガラス窓に養生 テープを貼らなければ、とか神社の森の大木が折れて飛んでこないか、と か車庫の車が風で通りに押し出されたらまずいぞ、などと心配ごとが次々 浮かんでとても達観どころではありません。     そこで、こんな時こそ心を1300年前の時空へ避難させようと、思い出した のが次の歌でした。         妹(いも)に恋ひ寐寝(いね)ぬ朝(あした)に吹く風は妹にし触れば 我れさへに触れ                                                  巻12・2858   あの子に恋して寝られないこの朝に吹いてくる風よ、もしあの子に触れて  きたのだったら、この僕にも触れておくれよ。     四句の「し」は強め、「触れば」は未然形+「ば」で仮定条件を示し、結句  の「さへ」は「にも」、「触れ」は命令形です。「寄物陳思」という部立に並び、 「風」に託して恋を詠むという技法が用いられています。      風の擬人化がユニーク...

(旧HP万葉カフェ5)2020年1月 

  生まれ故郷への愛着というものは、年齢とともに深まってゆくものかもし れません。最近、生まれてから十歳まで過ごした東京の根岸界隈がとても 懐かしく思われます。     正岡子規の木造旧居は中村不折の旧宅だった洋館(現書道博物館)と 向き合っており、その路地を通って、当時下町の学習院と呼ばれた根岸 小学校に通いました。学校帰りの路地には踊りのお師匠さんの家から三味 線の音が聞こえたり、隠れ家のような料理屋の門口に、毎日まっ白な塩が 小さな円錐の山にこんもり盛られるのを見て、不思議に思ったものです。     子規庵の隣は売れない小説家の住まいで同い年の娘がおり、よく遊びに 行きました。板塀を隔てた隣が著名な文学者の旧跡とはつゆ知らず、狭い  草深い庭で隠れんぼなどしたものです。     成人して短歌と関わるようになって初めて「子規庵」を訪れた時、造りも広 さも自分が育った家とよく似ており、実家に帰ったような印象を持ちました。    実家はとうに無く、「子規庵」の畳の部屋で手足を投げ出して昼寝が出来た らなあ、とひそかに思うこの頃です。      近代短歌の大きな主題の一つに望郷がありました。晶子の堺、啄木の渋 民、茂吉の金瓶、白秋の柳川など、産土の地はそれぞれの作品にエネル ギーを与え、幾つもの秀歌が詠まれています。もっとも、彼らはみな若く、  加齢とは関わりなく「ふるさと」を歌いました。      それは、若き日本の近代国家創成の時期にあたり、地方出身者が大量   に新都東京に移り住んだ時代背景と関わりがあるのでしょう。地方出身者  たちの望郷の念を汲み取るかのように、時代そのものが持つ気分を優れた 歌人が歌い得た、ということかもしれません。     万葉集の望郷歌といえば、令和の改元でいちやく有名になった大宰府 長官の大伴旅人が思い出されます。神亀六(729)年、小野老(おののおゆ)  の昇叙を祝い大宰府では祝宴が開かれた...

(旧HP万葉カフェ4)

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