(旧HP万葉カフェ32)2022年6月
眠れぬ妹を闇に思う大判官の一首
筑紫館を後にした一行は博多湾を十八キロほど進み、現在の唐泊(からどまり)に着きました。当時、そこには船が停泊して人々が宿泊する施設があって、使節団も三泊しています。折から秋の美しい月夜が続いたようで、海原を皎々と照らす月光に旅の憂いは極まり、せめても歌で慰めよう、という運びになりました。
大使と大判官がそれぞれ一首、それに無記名の四首が載せられています。そのうち、大判官の歌を読んでみたいと思います。大判官とは大使、副使に次ぐ位で、名は壬生使主宇太麻呂(みぶのおみうたまろ)とされています。
旅にあれど夜は火灯し居る我を闇にや妹が恋ひつつあらむ
巻十五・3669
〈苦しい旅先であっても、大君に命じられた任務であればこそ、夜も明るい灯火の元でこうして過ごしているけれど、そんな私を闇の中で眠れぬ妻は悶々と恋しく思っていることだろう〉
灯油は貴重品ですから、下級役人の家では日暮れとともに闇が訪れます。一晩中灯明をつけるなど、ありえませんでした。自分の置かれた非日常的な夜の明るさに気づいた時、作者は闇に鎖されたわが家の妻を思い浮かべます。恋しい男を想って眠れぬ妹の白い肌が闇の中に見えるかのようで、ほのかな官能さえ感じられる一首です。
作者は疫禍に蝕まれた苛酷な旅にあって運良く罹病せずに帰朝、その後は国守などを経て従五位下まで昇進しています。悲運の遣新羅使人たちの中で、無事帰還できただけでも僥倖といえましょう。この歌を含めた五首が新羅への旅中に詠まれ、万葉集に載せられました。
(寺尾登志子)
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